兵庫県知事問題において「人殺し」発言が話題になっている。記者会見の場で人殺しとの発言があり、県知事自らが複数の市民を刑事告訴するという前代未聞の事態となっている。
人殺しと名指しされた側が憤慨するのはわからなくはないが、それを見聞きする多くの人達が(知事を支持する側も支持しない側も)、「人殺し」という文言について拒否反応を示しているのがどうも解せない。
落語「たちぎれ線香」は、お茶屋通いをする若旦那と芸妓小糸の人情噺である。遊びがあまりにもひどいため、番頭に百日間の蔵住まいをさせられた若旦那のもとに小糸から毎日手紙が届く。若旦那に恋する小糸は毎日手紙を書くが、番頭は来た手紙は若旦那には渡さずしまっておく。小糸は毎日手紙を書き続けるが返事がなく、若旦那に見捨てられたと思い心身病んで亡くなってしまう。蔵から出ることを許された若旦那は小糸がいたお茶屋を訪れるが、すでに小糸はいない。お茶屋の女将に経緯を話していたところ、仏壇から小糸の三味線が聞こえてくるという噺である。
この噺の後半、小糸の三味線が聞こえてくる直前に、小糸の同僚であった芸妓衆が三七日の弔いにやってくるシーンがある。五代目桂文枝師匠の音源を聞くと、
芸妓衆「お母はん、えらい遅うなりまして、、、」
女将 「今日は若旦那さんが来てくれておますのや」
芸妓衆「えっ!あの人殺し…」
観客(笑)
という流れである。女将が若旦那が来ていることを告げると、芸妓衆から思わず「人殺し」という言葉が口をついて出る。そして、そのあと落語を聴いている観客から笑いが起きる。
芸妓衆にしてみれば、若旦那のせいで小糸が死んだという認識があるので「人殺し」という言葉が出てくるのはごく自然で普通のことである。つまり、こういう場において人殺しという言葉はごく自然に出てくるのである。
では兵庫県知事会見の場ではどうか。問題は、”県知事が元県民局長の公益通報に関して「嘘八百、公務員失格」などと公の場で断罪処分し、局長は「一死をもって抗議する」という言葉を残し自ら命を絶った”、ことにある。さらに、知事は会見の場で期限内に不服申し立てをしなかったのだから、罪を認めたことになるという趣旨の発言をしている。これに対して記者から「人殺し」という言葉が発せられた。間接的にではあれ、その人のせいで人が死んでいる場合、人殺しと口をついて出てもおかしくはない。ましてや権力を持っている為政者が追い打ちをかけて死者を愚弄する発言をするのであればなおさらである。
たちぎれ線香では、人殺しの文言が出た後に観客は笑う。観客も皆同様に若旦那が小糸を死なせた張本人であることを知っているので、人殺し発言のあと笑う(失笑という感じで)。この笑いはとても重要な要素となっている。この後、場面は仏壇から小糸の三味線が鳴り出すというクライマックスに突入する。
ここは私の感じ方であるが、この観客の笑いによって若旦那は断罪され小糸が少し浮かばれるような気がする。さらに逆説的に言えば若旦那もその罪が少し軽減されるのではないかとさえ思う。
そういう意味においては、あの知事記者会見の場で人殺し発言が出た際に、他の記者たちは皆で笑ってやればよかった。そうすれば、局長は少しは浮かばれ、さらには斎藤知事さえも多少は気が休まったのではないかとも思う。もっと言えば、斎藤本人が笑い飛ばせばよかったのだ。しかし、知事はこともあろうに記者を刑事告訴し、さらには呼応した一般市民さえも刑事告訴する行為に出た。これに怒った市民はその後も人殺し発言を続け、県庁や三宮の街中に「人殺し」が木霊した。
直接的に手をくださなくても、その人のせいで人がなくなるという事象はいくらでもある。いじめ、ネットの誹謗中傷、ハラスメント、そして戦争などなど。その場合においても人殺しは人殺しで、それが口をついて出るのは人間として普通の感覚ではないだろうか。
さて、落語に戻ると桂米朝師匠のたちぎれ線香では、この芸妓衆の場面では、
「小糸ちゃんの仇(かたき)…」
と言っている。「人殺し」ではなく「仇(かたき)」。仇というのは一見人殺しよりはきつくないと思うかもしれないが、必ず誰々のという修飾を伴う。ここでは、”小糸の”仇である。一方、人殺しはそれ単体でも成立し、誰を殺したのかはわからないが一般的に人殺しなのである。案外、仇の方が具体的対象を伴う分どぎつい表現に思えてしまう。
なお、米朝師匠版の方は、ここで笑いは起きない。ここは間を置かず、「そんなことを言うもんではない」と女将にたしなめられすぐに次の場面へ移る。あえてそうしているのか、単に米朝師匠が受け継いだ噺がこうだったのかわからない。
たちぎれ線香は人情噺で笑う箇所は少ない。とくに後半は笑う箇所はないのだが、文枝師匠のたちぎれでは例の人殺しの場面で笑いを起こしている。これはまさに緊張と緩和であり、あえて笑いでそれまでの緊張を緩和させることによって、クライマックスをより盛り立てる効果を得ていると感じる。一方米朝師匠は緊張を持続させ小糸の悲しみの三味線まで息つく暇を持たせず観客を魅了する。どちらのたち切れがよいとか悪いとかではなく、細部までよく聴くと効果的な違いがあって興味深い。
斎藤知事が落語を聴くかどうか知らないが、たちぎれの聴き比べでもして考えてもらいたいものである。もっとも落語を聴こうかという感性を持っているならば、このような不祥事は起こさないであろうが。
