【書籍】仏教の思想4 認識と超越<唯識>

服部正明、上山春平『仏教の思想4 認識と超越<唯識>』、角川ソフィア文庫、2010年


仏教の思想 4 認識と超越<唯識> (角川文庫ソフィア)

三蔵法師でおなじみの玄奘は唯識の「瑜伽師地論」を学ぶためにインドの旅に出たという。唯識とはいかなるものであるか。シリーズ2のアビダルマの本では「唯識三年、倶舎八年」と言われていた。三蔵法師の旅にしてみれば、三年でも短い気もするが、これをわずか2ヶ月で学んでみようというから、さわりもさわりの断片でしかないとは思うけれど、まずは入門ということで本書を読む。

有部・経量部と大乗の中観、瑜伽の対比の中で、唯識は形成され理解される。唯識といえば八識である。いわゆる六識に自我意識のマナ識、そして潜在意識のアーラヤ識で八識になる。

唯識は外界的実在世界を否定し、すべては心の働きであるとした。その心の中でも、アーラヤ識は、「無限の過去世から現象にかかわる心の働きの余習を蓄積しながら流れを形成している潜在意識」というものである。そして、瑜伽行を通じての唯識観の習得により、アーラヤ識が断たれ真如(法界)へと到達する。

もともと、これは「光り輝く心(心の本性)」として皆に備わっているものであり、いわゆる如来蔵思想に通ずるものである。

アーラヤ識というのは、あらゆる種子(しゅうじ)の住居(アーラヤ)という意味である。種子は潜勢力のことで、善心、悪心、無記がある。普通は皆、煩悩の種子が卓越しているのだけれど、煩悩のない無漏の種子を育て成熟させることで、汚れの種子を取り除いていく。アーラヤ識は輪廻の中で絶えず引き継がれているけれど、最終的に煩悩が断たれると輪廻の世界から抜け出すことができる。

そして、これを行うためには瑜伽(ヨーガ)の実践が必要なのである。唯識は瑜伽行派ともいわれる所以である。つまり、頭の中で理論をいくらこねくりまわしても、煩悩を断つことは不可能というわけだ。それには、まず「止観」を実践する必要がある。止は外界の対象に向かう心のはたらきを静めることであり、観は静まったこころの中に教えの内容をありありと描き出すことである。さまざまな実践方法があるのだろうが、根本的には瞑想である。

悟りへ向かうにも様々な階層があるようだが(菩薩の十地)、こればかりは本で読んだだけでは全くイメージすらできない。やはり実践を含めてみないことには、どこに向かうかすらわからないのだろう。瞑想やヨーガというのは現代ではスピリチュアル的な怪しげな印象になるのだろうが、仏教に限らずインド的宗教の根幹をなすものなので、現代の日本仏教においても、この実践というのは非常に重要な位置を締めているはずだ。

私もなんだか瞑想なのか昼寝なのかわからないものを毎日続けているが、煩悩以外の境地に達するとは到底思えない日々を過ごしている。本書でいうところの「涅槃の可能性を寸分ももたない生来の凡夫」なのである。そして、このことを自覚していればまだよいが、煩悩の世界におぼれているとあっては、はなはだ心もとないのである。

ところで本書では、世界を論ずる上で、三種の存在形態というのが重要であるとされる。

  • 遍計所執性ー仮構された存在形態(思惟されたもの)
  • 依他起性ー他に依存する存在形態(縁によって生ずる構想作用)
  • 円成実性ー完成された存在形態(依他起性が遍計所執性を常に離れていること)

依他起性を軸として遍計所執性から円成実性への転換が「転依」である。

そして、これは西洋哲学の弁証法的になぞらえ説明されている。説一切有部の分別(テーゼ)を中観は否定し(アンチテーゼ)、唯識は中性と両極端の弁別(ジンテーゼ)を解く。つまり、遍計所執性と円成実性を依他起性により成熟させたのが唯識というわけだ。だから、アビダルマと中観をさらに勧めたのが唯識ということがよくわかった。

でも、ということは、やっぱりアビダルマも中観もきっちり学ばなければならないのだなと考えさせられる一冊である。

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