桂紹隆、五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』、春秋社、2016年
ナーガルジュナ(龍樹)の『根本中頌』の現代語訳と解説の本。訳は『中論』ではなく、サンスクリット原典からの和訳。
本書では、「龍樹の主張する縁起は相互依存の縁起ではない。」と主張している。先に読んだ中村元の『龍樹』では、龍樹の縁起は「相依性の縁起」であり、相互依存、相互限定の縁起を説いているとのことだったが、本書では中村説を批判している。
本書によると『根本中頌』の主張は、「互いに他を前提としてはじめて成立する(相互に依存/関連している)ものは、無限循環(悪無限)になるがゆえに、それぞれに実体性はなく、無自性・空である。」とのことだ。つまり、あくまで「相互依存」は実体に関係が成立しないための理由であり、縁起そのものを相互依存の縁起として主張しているのではないとする。時系列にある関係は、相互依存とは言っていないということだ。そのうえで、龍樹が念頭においている縁起は、あくまで「十二支縁起」であり、「相依性の縁起」なるものを新たに説いているわけではないという。
この点に関しては、個人的にはとても納得できる。確かに中村『龍樹』(他にも同様の説が多いようだが)の言うように「相依性の縁起」が龍樹の説いた縁起とするには、ちょっと引っかかっていたので、本書の説の方がすんなり腹落ちした。そういう目で見ると、『根本中頌』でなぜ十二支縁起の章が結章の直前(第二十六章)にでてくるのかもうなずける。「十二支縁起は古典的で第二十六章は後世の付け足し」とまでする説もあるようだが、決してそうではなく、あくまで縁起は十二支縁起であればこそ、あの位置に置かれたのであろうと思う。
また、十二支縁起は、言語的多元性(戯論)から概念的思惟(分別)が生じ、さらに業・煩悩が生じる「流転門」(=世俗諦)と空性から戯論が滅し、さらに業・煩悩が滅することによる解脱に至る「還滅門」(=勝義諦)により説明されている。
さらに、本書では「単数形」と「複数形」の仏陀により龍樹の仏陀観を分析する。「単数形の仏陀」は釈尊であり十二支縁起を説いた歴史上のブッダ、「複数形の仏陀」は大乗の諸仏であり龍樹の主張する教説の称賛者・支持者として明確に区別されているとしている。龍樹自身が仏陀をどのように見て扱っていたかという視点はなかなか面白く、この観点から『根本中頌』以外の著作が龍樹の作であるかどうかを考察している。本書によると、「『根本中頌』以外は龍樹の著作ではない」という主張であるが、この辺りは私自身さらに勉強してみなければわからないところだ。
なかなか面白く読めた一冊。