【書籍】インド人の論理学

桂紹隆『インド人の論理学』(中公新書)、中央公論社、1998年

先日読んだ『龍樹『根本中頌』を読む』が面白かったので、共著者の一人が書いた本書を続けて読む。

仏教をはじめ数々の宗教思想や哲学、数学などを独自に発展させ、現代でもIT分野で攻勢を誇るインド人ってやっぱり頭いい、ということなのだが、そのインド人の論理学の思想史をまとめた本。

アリストテレスに代表される西洋の論理学は「演繹法」であるのに対して、インド人の論理学は「帰納法」であるというのが本書のテーマ。

まず、正統バラモン教における六派哲学のうちニヤーヤ学派(論理学を専門に研究する学派)の論理構造が概説される。五支論法(提案、理由、喩例、適用、結論)に代表されるニヤーヤ学派の論理学は、仏教書などにもよく登場する言い回しであり、インド人の論理構造のベースとなる。また、インド人は討論好きなんだろうか、医学書『チャラカサンヒター』などには、現在でも十分に通用する討論のマニュアルが書かれている。どういう状況下でどうやって相手と討論し論破していくか、2000年も昔にこんなことを考えていた人たちは、やっぱり頭がいいのだろうなと感心する。

そして、次におなじみナーガルジュナ(龍樹)の論理学が登場する。「中論」を読めばわかるように、ナーガルジュナは枚挙法と帰謬法を併用して他派の論理を論破していく。ここで一つ面白かったことは、「中論」第二章の運動の否定における解釈は、サンスクリット文法にのっとって理解する必要があるということだ。

”すでに通過された所が、今通過されつつある。”というのはサンスクリット語で、

”gatam gamyate”

この文章が否定されるのは、主語に当たる名詞句と動詞がともに「同一の対象を指示する」というサンスクリット文法から見ると自明におかしな文章であるからという理由のようだ。名詞句(gatam)は過去の進行行為の対象を意味しているのに対して、動詞句(gamyate)は現在の進行対称を意味しており、両者が同一の対象を指示していない。要するに、文法的に明らかにおかしな文章となる。第二章ではこれ以降も、文法学的に解釈した場合に、提示された命題がどう否定されるかの議論が続く。

「中論」は日本語訳では全く難解であるのだけれど、サンスクリット文法を理解してから読めば、もっと簡単に読解できるということなのだ。哲学は言葉を扱う学問であると言われるように、インド哲学やインド宗教思想においてさえも言葉をどう取り扱うかが大きな問題になっていて、それがまさに核心部分でありうるのだろう。

本書では、さらにインド論理学が帰納法的であるという主題が論じられる。それは、「随伴」と「排除」により論証式が成り立っていることによる。何かを論証しようとする際、理由が同類例と異類例の中にどのように結合しているかを示す「因の三相」が、その理由が正しい条件となりうるかを決めることになる。つまり三相とは、①主題への所属性、②同類への随伴、③異類からの排除 であり、これをどう満たすかで、論理構造が示される。仏教論理学者のディグナーガは、「偏充関係」として、この三相をより強く制限限定したものを加えた九句因説を唱え、その後継者のダルマキールティもさらに論理学を発展させた。

仏教を学ぶというのは、単に宗教を学ぶということではない。それは、言語であったり、哲学であったり、論理学であったり、膨大な知識の上になりたつアカデミックな学問である。それを強く感じさせてくれた一冊。

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