【書籍】梵漢和対照・現代語訳 維摩経

植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』、岩波書店、2011年

在家信徒であるリッチャヴィ族のヴィマラキールティ(維摩詰)が、方便により病気になり、見舞いに来たマンジュシリー(文殊師利)たちと問答し説法するというお話。空の思想を根底に説かれているが、思わず笑ってしまうエピソード満載の楽しめるお経だ。

第1章 仏国土の完全な浄化という序(仏国品第一)

ブッダ(世尊)は、八千人の比丘、三万二千人の菩薩を前に、リッチャヴィ族のラトナーカラ(宝積)とシャーリプトラ(舎利弗)にブッダの国土の完全な浄化について説く。

第2章 考えも及ばない巧みなる方便(方便品第二)

リッチャヴィ族のヴィマラキールティ(維摩詰)は、方便によって病になる。そして、見舞いにやってきた人々に仏法を説いた。

第3章 声聞と菩薩に見舞い派遣を問う(弟子品第三)

世尊は舎利弗に維摩詰の見舞いに行くように命じる。舎利弗は以前、維摩詰に言い負かされたので、見舞いに行くのは耐えられないと断った。

マハー・マウドガリヤーヤナ(大目犍連)、マハー・カーシャパ(大迦葉)、スブーティ(須菩提)、プールナ・マイトラーヤニープトラ(富楼那弥多羅尼子)、カーティヤーヤナ(迦旃延)、アニルッダ(阿那律)、ウパーリ(優波離)、ラーフラ(羅睺羅)、アーナンダ(阿難)の十大弟子たちも皆断った。

※いきなり笑ってしまうエピソードが出てくる。維摩詰はかなり弁がたつと見えて、えらい高僧の十大弟子は以前みんなやり込められていた。世尊が「お見舞いに行きなさい」というのに、ことごとく断って「行きたくない」と駄々をこねている。

第3章  声聞と菩薩に見舞い派遣を問う =続き(菩薩品第四)

世尊は、マイトレーヤ(弥勒)、プラバーヴューハ(光厳)、ジャガティンダラ(持世)、スダッタ(須達多)の菩薩たちにも依頼したが、皆断った。

※菩薩たちもみんな、嫌なものは嫌なのだ。なんとも俗人的な話で、かえってホッとする。

第4章 病気の慰問(文殊師利問疾品第五)

世尊は、マンジュシリー(文殊師利)法王子に維摩詰の見舞いに行くよう命じた。文殊師利も維摩詰の弁がたつことを色々述べたが、結局承諾し、見舞いに行くことになった。維摩詰と文殊師利の問答を見れるとあって、多くの菩薩、声聞、神々がついていった。維摩詰は家を空っぽにして皆が来るのを待ち、皆が来ると説法を始めた。

※自分が行くのは嫌だけど、他人が行くならついてって見てみようなんて、菩薩や神様とはいえ何とも自分勝手で人間くさく、思わず笑ってしまう。

第5章 ”考えも及ばない”という解脱の顕現(不思議品第六)

舎利弗は「大勢でやってきたので皆の座るところがないなあ」と思っていたら、維摩詰に説教された。維摩は神通力によりスメール山の師子座を家の中に現し、”考えも及ばない”(不可思議)という解脱について説法した。

第6章 天女(観衆生品第七)

「菩薩は一切衆生を空なるものと観るべき」、「一切法は依って立つ根拠がない」、「菩薩の大慈」などについての文殊と維摩の問答を聞いて、天女が花を降らせた。花を取り払おうとする舎利弗と天女は問答する。舎利弗は天女に「どうして男にならないのか」と問う。天女は神通力により、舎利弗と天女の姿を入れ替えて、「一切法は女でも男でもない」と説いた。

※これは、「法華経」の龍女の変成男子のエピソードそのものだ。女性は成仏できないとする男尊女卑の思想を批判している。天女は舎利弗を女性に変えて、「女とか男とか関係ないじゃん」と舎利弗をやり込める。まったく舎利弗も形無しだ。

第7章 如来の家系(仏道品第八)

文殊師利との問答。「菩薩の道」、「如来の家系」について。

第8章 不二の法門に入ること(入不二法門品第九)

菩薩たちが不二の法門(二元対立とはなにか)について説く。最後に聞かれた維摩は沈黙をもって答えた。「詳述も、解脱も、発言も、陳述も、言説もない」これが不二の法門に入るということだ。

※空思想の根本とも言える箇所。言葉を超えたところに空の本質がある。というか本質などというものはない。。

第9章 化作された(菩薩による)食べ物の請来(香積仏品第十)

舎利弗は、「食事の時間が終わろうとしているけれど、誰も食事に行こうとしない。どうするんだろう?」と思っていた。維摩は「食事のことなど考えながら話を聞いてはいけない。」と説教した。維摩は神通力で菩薩を化作し、香積如来の衆香という仏国土に食べ物をもらいに行かせた。

※ここが一番笑った部分。舎利弗は「お腹すいたから、ご飯の時間はまだかなあ」なんて考えながら人の話を聞いていて怒られるというくだり。舎利弗というのは、智慧第一と言われ頭もいい釈迦のお弟子さんだが、こういう経典ではちょっと残念なキャラクターとして書かれていることがある。なんとも憎めない愛しき友人といった感じだ。維摩経の中では、いらないことばかり考えて説教食らいっぱなしの損な役目となっている。

第10章 尽きることと尽きないことという名前の法の施し(菩薩行品第十一)

維摩詰と皆は、衆香から来た菩薩たちとともに、世尊のもとにやってきた。世尊は、「尽きることと尽きないことという名前の法(尽無尽解脱法門)」を説く。

第11章 ”極めて楽しいところ”(妙喜)という世界の請来と”不動であるもの”(阿閦)という如来との会見

維摩は如来について説いた。世尊は、維摩が妙喜という世界の阿閦如来のもとからやってきたと明かす。維摩は神通力により、妙喜をサハー世界に持ってきた。

第12章 結論と付属(法供養品第十三)

世尊が法の供養について説く。

第12章 結論と付属=続き(嘱累品第十四)

世尊は弥勒菩薩に、阿耨多羅三藐三菩提を付嘱した。アーナンダは、「維摩詰の所説」、「対をなす章句や逆説的なことの提示」、「不可思議解脱」の法門を是認した。

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