【書籍】仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>

紀野一義、梅原猛『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』、第6版、角川ソフィア文庫、2011年


仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮> (角川文庫ソフィア)

仏教の思想シリーズを最初から順に読んできたが、どうも中国仏教が頭に入らないため、日本の仏教を先に読むことにする。本書はシリーズの中でも最後の本であるが、馴染み深いので最初に読むことにした。

私の実家は日蓮宗の檀家さんで、実家には仏壇もあったし、葬式や法事、お盆など事あるごとに、お寺からお坊さんが来て、「南無妙法蓮華経」を唱えていた。当然、このお題目を唱えることが、仏教とのつながりの最初であったし、数年前には母親を連れて身延山にお参りにも行った。私自身は、特に日蓮宗の信者と思っているわけではないが、最も馴染みのある宗派といえばやはり日蓮宗ということになる。

とは言っても、きちんと日蓮について学んだことはなく、ざっくりしたイメージしかないという罰当たりな状態であった。ということで、本書を読む。

日蓮の生涯は、おもに3つのパートにわけられる。

  • 鎌倉期:思想の出現「守護国家論」「立正安国論」
  • 佐渡期:日蓮教学の成立「開目抄」「観心本尊抄」
  • 身延期:「撰時抄」「報恩抄」(身延山への入山はなぜかという問いに、蒙古が攻めてくるための避難ではないかという説は興味深い。)

日蓮といえば、念仏宗の法然をはじめ、律宗や真言宗など事あるごとに折伏の対象とし、激烈な批判を加えている。このために、数々の法難にあい、龍ノ口の法難では、平左衛門による私刑で斬首されるところを「光たる物」(という伝説)により一命をとりとめ、佐渡に流される。

著書「守護国家論」「立正安国論」などから、日蓮は国家主義的な思想家かと思っていたが、本書では逆に「日蓮は国家主義者ではない」と論じられている。国主が正法を護持する国家がよいと考えていたようだが、一切の権威を認めず、いわゆるナショナリズムとは異なるようだ。

日蓮はこれまでインテリ層には嫌われることが多い。その要素としては、

  • 預言者としての宗教家
  • 他の教えに対する攻撃
  • 論理の飛躍

などがあげられている。

他宗に対しては鋭い批判を繰り返しているが、弟子たちには丁寧な手紙を多く残し、かなり気のつくよい師であったらしい。人間的な魅力がかなりあったようだ。このおかげか、今日では仏教諸宗の中で日本人祖師としては唯一自分の名前が宗旨に残っている。

ところで今、期せずして宗教というものが大きくクローズアップされている。先日、元総理大臣が銃で狙撃され命を落としたが、その根幹にあるのが「政治と宗教」というものだったからだ。

マスコミではカルトという言葉が連日とりあげられ、政治家との癒着などが問題となっている。なぜか、日本では宗教といえば、カルト教団(化学兵器などを作って人を殺したりしたものもあった)が大きな問題を起こして取り上げられる。カルトとはいったいなんだろうか?

先日、とあるお坊さんの動画でカルトの定義をあげておられ、「それに一つでも当てはまればカルトだ」と言われていた。例えば、「勧誘方法は良心的か。教祖や教団組織に盲従しないか。外部を極端に悪く言わないか。生活上の決まりは厳しくないか。伝統宗教を軽蔑しないか。過去の出来事を悪く言わないか。」など。

これは、なかなか厳しいカルトの定義であるように思われる。そもそも日蓮のとった行動は、極端に他宗派を批判しているし、厳密に言えば仏教そのものが過去生の業にもとづいて輪廻するという世界観が原点になっている。また、宗教組織であれば多かれ少なかれ、その組織への忠誠は暗黙のうちに誓うことになるだろうし、今でも苦行(飲まず食わずでお経を唱えるとか、山を千日歩くとか、滝に打たれるとか)を行うことは日常的にあるだろう。

ではカルトと他の一般的な宗教を分ける基準はなんなのだろうか?今回の事件で特に思ったことは、上記のような個々の基準ではなく、それは、「社会と時間の場が決める」ということである。

「社会」の場とは、その場の道徳とか価値基準とか、法律とか憲法とか、要するにその社会に生きている上で、その中に厳然と存在する「何か」である。法律などはきちんと明文化されているけれど、道徳や社会規範のようなものは、なんとなくその地域や国民性などよくわからないけれど、何か厳然とある基準ということになるだろう。

もう一つは、「時間」の場である。社会も歴史的時間によって、全く変わった規範を持つ。鎌倉時代と江戸時代と明治と現在を比べても、全く異なる基準を持っていただろうし、数々の偶然や出来事によって時間の歴史というものは成り立っている。

そのよくわからない社会や刻一刻変わる時間のなかで、1000年、2000年という長いスパンでその宗教が生き残るかどうかというのは、その宗教が「何か持っている」というひとつの大きな目安ではないだろうか。「何か持っている」というのは、形而上学的な神とか仏の力という意味ではなく、広範な社会で、長い時間の中にあっても、滅びることなく排除されることなく、続いてきたという事実自体である。

日蓮のとった、他宗を強烈に批判し折伏していく態度というのは、現在であればまさにカルトとカテゴライズされても仕方ないかもしれない。実際に当時、日蓮は襲われたり流罪になったり、処刑されかけたり、社会からかなり排除されそうになっている。しかし、それから1000年近くたった現在でも日蓮宗は脈々と繁栄していて、我々の日常の中に生きている。そこには、日蓮の持っている人間性というのもあるかもしれないが、長い時間と社会の中で何だかよくわからないけれど、その宗教が続いているという事実だけで、何かしらの基準を満たしているということになるのではないだろうか。

もちろん、それは仏教そのものにも当てはまる。2500年という長い時を経て、仏教は続いている。同じことが、キリスト教やイスラム教にも言える。細かいことを言えば、末端の宗派や人々は悪さをするかも知れないが、そういうものは均されながら、その宗教全体としては、時間と社会の中で行き続けている。そういう意味では、これらの宗教は純粋にすごいものだなと思う。

さて、今話題になっている彼の宗教は、どうであろうか?現在では、法律や社会の道徳感、政治家たちのちぐはぐな態度も相まって、かなり批判されている。はたして、1000年後はどうなっているだろう?もし、1000年後も続いているのだとすると、場がそれを排除しきれなかった、もしくはもっと積極的に、場が望んでいたものということにもなるのかも知れない。

読書メモ

  • 宮沢賢治、国柱会(父・親友の折伏に失敗し、不特定多数への折伏という意味で童話を書いたのではないか)
  • 常不軽菩薩から上行菩薩
  • 即身成仏: 日蓮思想の根底
  • 親鸞は日蓮に近いので、攻撃を法然に向けた
  • 蒙古来襲による使命の自覚
  • 身命を愛せずして、無上道のみを惜しむなり
  • 五重相対: 外内相対、小大、権実、迹本、教観
  • 仏教の本家は釈迦: 大日、阿弥陀を崇めている諸宗を批判

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